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大前研一ニュースの視点

米ナイキ/学研HD ~ナイキは日本との関係性が「タテ・ヨコ・ナナメ」に色々と絡み合っている

・米ナイキ 「実は日本生まれ」
・学研HD 介護施設1000拠点へ



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▼様々な日本との関係性に見る、ナイキ創業につながる物語
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日経新聞は16日、
「米ナイキ、実は日本生まれ」
と題する記事を掲載しました。

世界最大のスポーツ用品メーカー
ナイキの創業当初、
日本企業が資金と技術の面で支えたと紹介。



1962年に創業者であるフィル・ナイト氏が
アシックスの前身である鬼塚に
製品輸入で直談判に訪れたエピソードや、
独自にナイキブランドを立ち上げた後も
創業地のオレゴン州の
日商岩井(現・双日)ポートランド支店が
支えたとのことです。



私はマッキンゼーに在籍していた頃
ナイキのコンサルティングに携わり、
マッキンゼーを退職した後は
ナイキの社外取締役を務めるなど、
フィル・ナイト氏とは深い縁があります。

フィル・ナイト氏は
スタンフォード大学の
ビジネススクールの出身です。



卒業論文のテーマは
「今後米国では
労働集約型のビジネスモデルは難しいから
日本へ行く」
というもので、
まさにこれがナイキ創業へとつながる
物語の始まりでした。

卒業と同時に日本の鬼塚に頼み込んで、
鬼塚の製品を米国へ輸入して
販売を開始しました。



その後、鬼塚が、
自社ブランド「オニツカタイガー」の販売に
力を入れるということで、
両者の関係は途切れました。

そのタイミング前後で、
思ったように売上が上がらず
資金繰りに困る事態になった
フィル・ナイト氏を救ったのが
日商岩井(現・双日)です。



当時、日商岩井が日本から商品を輸入して、
ブルーリボン・スポーツ(ナイキの前身)に
納めていましたが、
資金繰りが厳しいブルーリボンの状況を
慮った対応をしたおかげで、
ブルーリボンは生き残りました。

その後、自社ブランドの販売を開始し、
ブルーリボンから
「ナイキ」というブランドが誕生しました。



フィル・ナイト氏は
日商岩井に恩義を感じていました。

しかし、ナイキブランドを立ち上げた後、
日本でもナイキブランドを
本格的に自社で展開したいとなり、
日商岩井が持っていた
日本の販売店を返してくれという話に
なりました。



その時、白羽の矢が立ったのが私です。

フィル・ナイト氏の依頼を受けて、
日商岩井にその交渉に行きました。

当時の社長は
後に日銀総裁になった速水優氏でした。



日銀から日商岩井に来た速水氏のところへ
私は何回も通って交渉を続け、
最終的に何とか日本の販売店を
ナイキに取り戻すことができました。

代わりに世界全体の物流を
日商岩井に任せるということになったので、
日商岩井としても
非常に広い商圏を獲得し、
大きな利益を上げたはずです。



こうした経緯について、
フィル・ナイト氏は
「SHOE DOG(シュードッグ)」
という著作の中で詳しく書いています。

振り返ってみると、
フィル・ナイト氏のナイキストーリーは
スタンフォード大学の
卒業論文で書いていた内容を
忠実に実行したものと
言えるかもしれません。



ナイキを立ち上げた当初から、
生産は外部委託でした。

当時は韓国企業などを
中心に委託していました。

まさに
「米国では
労働集約型のビジネスモデルは
難しい」
という自らの主張に基づいた
戦略だったと思います。



ナイキが「日本生まれ」というよりも、
ナイキは日本との関係性が
「タテ・ヨコ・ナナメ」に
色々と絡み合っているというのが
私の印象です。

 



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▼学研HDの強さは、事業領域のシフトに成功したこと
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学研ホールディングスは
2030年9月期までに、
国内で運営する介護施設の数を
現在の約2倍となる
1000拠点に拡大する方針です。

深刻な人手不足に対応するため
DXやロボットの導入により
生産性を向上させるほか、
自社で年800人ペースで
介護士を養成するとのことです。



学研の業績推移を見ると、
全てのセグメントにおいて
売上も営業利益も伸ばしています。

他の出版社の業績が
悲惨な状況に陥っているのとは対照的です。



セグメント別売上や利益を見ると、
従来からの出版コンテンツも伸びていますが、
塾や教室、
さらには「認知症グループホーム」
「高齢者住宅」「子育て支援」といった
今の時代に合った
新しいセグメントが
伸びていることが分かります。



受験参考書に
広告はほとんど関係ありませんが、
出版全体で広告が取れなくなってきた
時代背景を先読みし、
手堅い多角化をしてきた結果でしょう。

若い人達向けの受験教育事業から
年配の人向けの事業に
見事にシフトしています。



ちなみに、
私は学研から「遊び心」という本を
出版したことがあります。

学生時代に音楽を一緒にやっていた友人が
学研に勤めていて、
出版を誘われたのです。

私の予想を超えて30万部以上売れた本で、
私の著作の中では
少し毛色が変わった本になっています。

 

 

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